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  ぱ か ぱ 〜 じ ゅ 📖

年の瀬・シネマ 🎥

きのうは更新したけれど、二文くらいでとてもみじかいものになってしまった。

でも、それでいいのだった。

 

ツイッターのリンクをはずしてしまってあまり人に読んでもらえなくなったからといって(まあ、以前もたいして読んでもらえていたわけではないのだけれど)、調子に乗って暗いぼやきばかりを書きすぎないように気をつけよう、と思った。

 

じつはあまり仕事が手に着かず、なにかとのんびりしてしまう、年末気分になってしまって、だったらゆっくりしてしまえばいいのに、すこし焦る。

 

映画は今のうちにと続けてさいきんいくつかみている。

 

セルゲイ・ロズニツァ監督の長篇『ミスター・ランズベルギス』も数日前にみた。ランズベルギスさんの物腰や表情が初めから終わりまで私の関心をつよくひいた。ロズニツァ監督は、映画『バビ・ヤール』によって、ウクライナでは批判が多くあるらしい。年明けすぐに『新生ロシア 1991』が公開されるから、見逃せない。

 

玉田企画の玉田真也監督の映画『そばかす』は三浦透子主演の恋愛感情を知らない女性の物語。しずかな映画。途中で何度か笑った。恋をしない人も恋をする人も、みんなで見るのがよい映画。坂井真紀が登場したのもとてもうれしかった。

 

『そばかす』が水曜だからとはいえ、ほぼ満席で驚いたが、今日みたピエール・エテックスの『ヨーヨー』も、ほぼ満席だった。『ヨーヨー』のあとで、映画館をハシゴしてみたジェラール・フィリップはガラガラだった。ガラガラとはざんねんだけれど、忘れ去られないように、しずかに記憶をつなごう。年配の女性がちらほらいる。フランス映画が日本にどんどん入ってきた時代に青春期を生きていた女性たちのなかには、敏感にその面白さを受けとっていた人たちがたくさんいただろう。シネフィルのホモソーシャルな知的集団からははじきとばされてしまうような、映画三昧とはけっしていかないままに家庭に入り主婦となった女性たちにとっても、映画はやっぱりいつもすぐれて映画であったし、いまもそうでありつづけているだろう。そういう映画への感性を想像すると私は映画がまた、愛おしくなる。そして私の映画への感性もそれに属すにちがいない。

 

行く度にガラガラのジェラール・フィリップ、まだいくつかは、時間をつくって映画館でみたいと思う。

 

はじめてのピエール・エテックス作品『Yoyo』(1964)をみながら、なぜかゴダールを始終(私なりに)想った。『5時から7時までのクレオ』(1962)のゴダールにエテックス演じるヨーヨーが重なってみえた。そして Yoyo のテーマが『女は女である』(1961)の挿入曲とおなじと思えてならず(似てないかなぁ)、部屋を動きまわるアンナ・カリーナ演じるアンジェラを同時に想う時間となった。

 

『ヨーヨー』、しずかでやかましい映画にふさわしく、ほぼ満席だった。

 

 

帰宅後、映画でゴキゲンではあるけれども、今ひとつ何もする気にならない。

さっきようやく、本を読みはじめた。

 

柴田元幸さんが、翻訳するのはなぜかという理由に、「訳さないとわからないから」といったというのをどこかで読んだけれど、これ、私もほんとうにそうで、訳さないとほんとうにわからない。訳したことしかわからないうえにナマケモノなのだから、たいへんだ。たいへんだから、ナマケモノはやめたほうがいいかもな。

 

このつづきでしたい話があるけれど、それはまた今度にしよう。