はてなブログのタイトルを AI がつくる機能があるということに昨日気づいた。いつからあったのかな(と思い、検索してみると昨年末にはつかわれはじめていたみたいですね)。
川上弘美さんの新刊が発売となって、さっそく手にとる。川上弘美の新刊本を手にとると、いつも消えたと思っていた希望の光があかりをとりもどすかのような、ほわっとしたきもちになる。私にとって、そのような作家で今を生きている人はほかにはあまりいない。不思議な作家。
左目の不調が悪化して、二週間くらいまえに眼科を受診した。いつも処方してもらっているものとは別の目薬を処方してもらい、試すと充血はすぐに治まった。赤みがひいても異様な目の圧迫感は一向によくならず、少し不安なきもちで再度の受診。眼球自体には問題はないという。毎日頭痛がひどいことから、前回とは異なる錠剤を処方された。
先週、高校からの友人のひとりに数年ぶりに会っていろいろな話ができた。友人は、二人子どもがいて、長女は大学生になったし、二人目も私たちが出会ったころの年齢になっていて、そうやって親としての仕事からいよいよ解き放たれはじめている。とくにここ10年くらいで、さまざまな活動を積極的に展開するようになった印象だ(もっとも、子育てが中心であったころにさえ、いろいろと積極的な人であったのだけれど)。そんなかのじょに、お喋りの流れから、「ところでパカちゃん、高校生のときフロイトの精神分析、読んでなかった? あと、ヒトラーの『我が闘争』」と尋ねられた。即座に、『フロイトの精神分析』なんて本あったっけ、といってしまったけれど、それがフロイトの『精神分析入門』のことだとして、高校生のときに読んでいた記憶はないし、手にとった記憶もない。フロイトを最初に読んだのは『夢判断』だけれど、馴染まず離れて、その後、フロイトの著作に少しとはいえ入れこんだのは、もっとずっとあとのことだ。たいして読み込めないままになった。思いがけず、さいきんまたフロイトへの関心が再発(?)しているところだけれど、まだその時間はとっていない。
あのとき友人は、「『フロイトの精神分析』、読んでなかった?」と言ったように聞こえた。「フロイトの『精神分析入門』、読んでなかった?」とは言っていなかった。帰宅後、『ラカンの精神分析』という解説本なら、その友人がまだ東京にいてお互い学生だったころに読んでいたことがあるから、なにかの折りに、たとえば一緒に映画に行ったりしたときに、その本を私が読んでいたとか、そういうことならありうるかもしれない、と思いあたった。高校のときは、ラカンなど知らなかったけれど。
『我が闘争』も、関心をもったのは大学生になってからで、高校生の時に読んだのは、『ヒトラー』というタイトルの伝記でしかない。でも、『ヒトラー』の伝記を読んでいるなんて、だれかに言ったりした気がしない。今思いだそうとしても、それが翻訳なのかも誰が書いたのかもなにも覚えていない。そもそもそんなの気にせず読んでいたし、気にすることを知らない高校生だった。厚めの文庫だったようなきがするけれど、今みて分厚く感じるかはわからない。検索すればすぐにわかるような気もしたけれど、意外とわからない。実家にあるかもしれないけれど、私が家を出た後に実家が引越したときにいろいろなくなったから、ないかもしれない。
以上、思いつくままに綴って、 AI 機能でタイトルを表示してみたら……
「眼科で得た新たな視点と『ヒトラー』への思い👁️📚」
というのがいちばん奇妙だった。
どれ一つよいタイトルはなくてほっとした。