p a c a p a g e s

  ぱ か ぱ 〜 じ ゅ 📖

ローザス、忘れないで 🌹

 

 

 

復帰後、いろいろとこなしつつもひと息つくと無気力になる。

 

 

 

 

 

インスタグラムの画面に、制服のような恰好の若い女性たちが集団でロボットのように統制されたうごきで激しく踊る動画が流れてきた。いま検索してみると「アヴァンギャルディ」というダンスグループらしい。

 

ちょうど昨日、ずっと再見したかったのをようやく注文しておいたアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルのダンスカンパニーローザスのDVDが届いたところだった。ピナ・バウシュとはとうてい比較できないけれど、はじめてみたときのときめきは忘れがたく、私をコンテンポラリー・ダンスの世界へごく自然に導いてくれたのはローザスのダンスだったかもしれない。最初にみた女性ばかりが踊るローザスの作品は、『Hoppla !』だったか、コンテンポラリー・ダンスを知らない知識も乏しかった私には、日本の女子高生が制服をきてダンスを踊っている様子を想像させるところがあった。『ローザス・ダンス・ローザス Rosas danst Rosas』もそうだった。最初はいずれも DVD で、友人に見せてもらった。ときめいたのは、みな似たようにおどりながらも、みなそれぞれのやりかたでおどっていて自由だったからだった。伸びやかで、かっこよく、かわいくて、なんてすてきなんだろう、とおもった。日本人のダンサーがひとり入っていたことにも感激した。

 

ケースマイケルは、コルトレーンの「至上の愛」など、ジャズでおどる試みをはじめたあたりから、気持がのりきらず関心が薄らいでしまったような気がする。いま思えば、パリの市立劇場でリアルタイムでケースマイケルの試みをたのしんだのだから、贅沢なことだ。

 

 

youtu.be 

 

 

 

ちかごろインスタグラムの画面によく人が踊っている動画が流れてくる。多くは似たような動きでちいさな枠の中におさまって、踊っている人の多くがじっとこちら側をみつめて踊っている。多くの踊りは、枠の外に世界がないみたいな踊りだ。いち、に、さん、し、いち、に、いち、に、いち、に、ぐるりとまわって、いち、に、いち、に、といったような縦のリズムを反復することがが多いような印象がある。とてもたのしそうだ。じっと見ていると箱の中でなにか生きものがせっせとうごいているイメージを想像してしまう。もっとも、振付一つ満足に身につかない私にとって、からだをうごかせるというのはそれだけで称賛に価することはいっておかなければならないけれど、それでも、だいたいそうした動画を見ていると、もっと奥行きのある踊りが見たくなる。そうおもっていたら、同じくインスタグラムに流れてきた動画に、若い人たち郷ひろみが一緒に踊る動画があって、見てみると、郷ひろみの踊りは枠を越えていくダイナミズムがあってきもちがよかった。かれはちいさな枠の中で踊っていないんだな、ということがよくわかるような気がして、なんというか、やっぱり踊りっていうのは、それが一つの解放であるとき、自分はそれが好きだと感じるのだとおもった。わたしもやっぱり、心で踊っていたい。

 

 

 

 

「アヴァンギャルディ」というダンスグループは、「とてもかっこいい」と「高い評価」を得ているようだ。私には自由や解放は感じられないダンスにみえたけれど、たぶん、いまの世の中は、みんながぴったりと息をそろえて同じことをするうごきが、称賛される傾向にあるのだろう。もう10年近く前のことになるけれど、『ロシュフォールの恋人たち』のドヌーヴとドルレアック演じる双子姉妹のイベント会場でのダンスシーンをすてきだからとおもって学生たちに見せた時に、学生の一人が「ぜんぜんダンスが揃っていないと思った」とコメントしたことがあった。そのとき私はちょっと驚いたのだけれど、いまはそれほど驚かない。そうした感覚は、世間的に、あるいは世界的に拡大しているような気がする。

 

 

もちろんアヴァンギャルディについては個人的な感想だけれど、ダンスの流行には確実に世界のうごきが反映されているはずだ。

 

 

 

ピナ・バウシュに代表されるようなダンスへの感性をこの世界で見失いたくない。

 

 

 

ケースマイケルは日本では紹介が十分にされていないだろうか仕方ないかもしれないけれど、ピナ・バウシュさえもが、いまではすでに忘れられつつあるような気がして、焦燥感を覚える。そんなこともあって、毎年、学生にピナ・バウシュを授業のすき間時間にかならず紹介するようになった。紹介といっても、ドキュメンタリー作品を紹介する程度だけれど。そうやって紹介すると、学生たちのなかに、かならずピナ・バウシュに関心をもち引きつけられる人たちというのがあらわれる。今年度も少し紹介してみたところ、「本能的なものを解放することをしないできてしまったと思う」といったコメント、そしてこれに類するコメントが多くあった。今年度は、学生たちの感性の全体像がどこへかはわからないけれど向きを少し変えてうごいている気がする。気のせいかな。