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  ぱ か ぱ 〜 じ ゅ 📖

かげひなたなく

 

朝からのMRIははじめての造影剤の注入だった。

20分くらい経ってから、いったん検査を中断して、すこしだけ身体が外に引き出されると、左腕から針で血管に流し込まれて、そこから20分くらい。いつもより長い検査だった。

 

 

さいきん短めのショートカットにしている。髪の毛が多くて重たいので、一度切ってしまうと、よく今まで長くしていたものだとおもう。でも、短くしてさっぱりしたかというとそうでもなくて、やっぱり髪が多くてぼさっとする。なんだか中学生のころみたいになってしまった。このさい刈りあげたいとおもうのだけれど、女性らしさにこだわりのある美容師さんは気がすすまないということなので、やめておいている。それに、刈りあげたところで、髪の毛の多いところは多いまんまだから、縦にボサッとするのだろうな。

 

 

検査が終わって、つきそってくれたパコさんと、以前から行く予定だった『生誕100年 山下清展』へ行く。

 

病院からすぐちかくで、ちょうどよかったけれど、8月のどまんなかで、なかなか混雑していた。若いころに新宿アイランドタワービルで飲食のアルバイトを3年くらいしていたので、通うたびにしょっちゅう看板を目にしていたのは「東郷青児美術館」という名前だったと思ったけれど、いつのまにか「SONPO 美術館」に名前が変わっていた。ネットのホームページを見てみると、わりと名前がくるくる変わってきたようで、1976年の開館時は「東郷青児美術館」、1987年に「安田火災東郷青児美術館」、2002年に「損保ジャパン東郷青児美術館」、2014年に「東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館」、そして2020年に「SOMPO美術館」となり、移転もしているということがわかった。私がしょっちゅう東郷青児美術館の看板を目にしていたころは、いつもいつも、「ゴッホ展」をやっている印象だった。当時すきな画家といえば誰をおいてもゴッホだったのに、「みにいっても「ひまわり」しかないんだよ」という話をだれかに吹きこまれて、「あ、そうなんだ」となんとなく軽薄な反応をしたまま、財布のことばかり考えて、一度も行かずじまいで年を重ねた。ゴッホ展といえば、横浜美術館の1995年の冬の展示が心ゆさぶるゴッホ体験となっていて忘れがたく、その後はじめてオルセー美術館に行くのが1997年の春だから、東郷青児美術館の「ひまわり」を見ることを急ぐ必要を感じなかったのだろう。「ひまわり」は1987年に安田火災が購入したものとホームページにあった。今日ようやくその「ひまわり」をみた。大きく、圧倒的で、ガラス越しなのに、油が匂い立つかのようだった。

 

私が親しんできた山下清は、いつも持ち歩いていたチラシのきりぬきや、ポストカードセットや、文庫本や、実家のポスターだったから、こんなふうにみるのは本当にはじめてで、はりきりすぎた。今夜は力尽きて、おかげでブログを更新できているような気がする。

 

私は山下清のドラマや映画を見たことはなく、本を読んでかれの言葉と複製とはいえ絵だけで近づいたから偏見はほとんどなく、展示を見ながら、おもったとおりのひとだったように思えた。かげひなたのないひとだ。

 

1972年の7月、夏のはじまりに49歳で脳溢血で倒れて死んでしまった山下清が、その死をまえに「今度の花火見物はどこに行こうかなあ」、といった言葉を最後に残したと、展示の最後の年譜に書いてあった(正確に引用できていないとおもう)。その記述が、妙に心に残って、大きなおみやげをもらった気がした。

 

 

帰り道、はて、自分は最後にどんな言葉を言って死ぬんだろ、とおもった。

 

 

 

 

かげひなたなのない人になりたい。

 

 

 

 

 

 

そういえば、ナタリー・サロートは、チェーホフの最後の言葉を作品の題材にしている。

「イッヒ・シュテルベ」

 

『言葉の使い方』という本の最初の一篇。

生きて、いつか翻訳したい。